1996年、当時16歳だった私(山本)に大きな人生の転機がやってきました。
私が当時通っていた学校(関西学院高等部)では、年に一度ゴスペルコンサートを開催していたのですが、その年のゲストは、今や日本のゴスペル第一人者となられたラニー・ラッカー氏率いるMISSIONというグループでした。
コンサートが始まるや否や、男子生徒900人が瞬く間に引き込まれていき、先生たちも加わり大合唱。前代未聞の盛り上がりを見せたコンサートとなりました。
その後、私は生徒会役員の一メンバーとしてラッカー氏を囲む交流会に招かれたのですが、突然ラッカー氏が一言、「誰かピアノ弾ける人いない?」と。次の瞬間、私は友人たちに背中を押され、彼の前で演奏することに。
目の前にあるのは61鍵の簡易キーボード...。しかも当時私が即席で弾ける曲といえばクラシック...。ぱっと思いついたのはベートーベンの悲愴「第一楽章」...。結果はお察しの通り、何ともお粗末なことに。
しかし、私の演奏を聴いた彼は、こう言ったのです。
ーあなたは選ばれました!ー
この出来事を通し、私は、彼のスカウトを受け、ゴスペルピアニストとしての第一歩を踏むことに。
そして迎えた初現場、思いもよらない出来事が私を待っていたのでした。
「あなたは選ばれました」という言葉に、ただただ胸を躍らせて会場入りした私。すると期待通り、彼が笑顔で登場し、颯爽と演奏を始めました。「いい曲だな。見事な演奏だなあ。」と思いながら傍聴していた次の瞬間、事件が起きたのです。
さっきまで演奏をしていた彼が急に立ち上がり、私に向かって「弾いてくださぁい!」と一言。私は一瞬で凍りついてしまいました。なぜなら、その曲は聞いたことも弾いたこともない曲だったからです。楽譜もありません。
ただ茫然とする私に、彼はもう一度言いました。
-弾いてくださぁい!ー
私は戸惑いましたが、正直に彼に答えました。
-「できません」ー
すると彼は私にこう言ったのです。
ー「どうしてできない?なんでできない?」ー。
音楽人生で初めて受けたネガティブワード、そして味わった挫折。
気をとり直し、5日後に控えた公演に向けて、私は死に物狂いで練習しました。
そしてコンサート当日。またもや意外な結末が。何と私が弾く予定だった曲が、プログラムから飛ばされたのでした。これがプロの世界か。自分の力不足と不条理な現実に、若干16歳だった私の心は早くも折れかけていました。
そんな私に彼が一言。
ー「またがんばろう。」ー
この出来事を通し、私は自分という人間がどれほどプライドが高く、井の中の蛙だったかということに気づかされました。そして決断しました。
ー「自分の人生をリセットしよう」ー。
今まで築き上げたものを一旦白紙にし、まずは等身大の自分と向き合うことを決意しました。その時になくてはならない存在、それがあの世界的ベストセラーである書物「聖書」でした。
母校(関西学院)ではキリスト教式の礼拝が毎日あるのですが、そこで語られる聖書のことばと賛美歌によって、私は神様の愛を知り、本当の「ゴスペル」を体験していきました。
そして2000年の5月、キリスト教式の洗礼を受け、クリスチャンとしての歩みを始めました。
私たちには誰でもプライドや自己顕示欲があります。自尊心を持つことは決して悪いことではありません。しかし、時としてそれが悪い方向に働くことも少なくありません。
クリスチャンになるということは、自分の罪を悔い改め、神の愛に生きるということ。聖書のことばを人生の土台とし、一方的に与えられる恵みへの応答として、祈りと賛美を捧げるということ。
不思議なことに、これらのことを忠実に実践していくと、どんどん道が開かれていきました。同大学の3回生の時には、複数の教会や企業はじめ、大阪女学院短期大学の非常勤講師やヤマハ音楽教室でゴスペルを指導するようになりました。
(旺文社「蛍雪時代2001.7月号」より抜粋)
そして2003年1月、関西学院大学総合政策学部を卒業する年に、ゴスペルミニストリーS.C.Aを創設し、現在に至ります。
私たちの人生はドラマです。
そのドラマの最終回は「失望に終わらない希望」が待っています。
苦難や忍耐は何のためにあるのでしょうか?
それは「品性を生み出す」ためであると聖書は語ります。
鉄はハンマーで打たれなければ、ただの鉄です。
しかしハンマーで打たれれば、不純物がすべて取り除かれ、強靭な鋼に生まれ変わるのです。
私たちの人生も同じではないか、と私は考えます。
苦しいこと、忍耐をすることにより、より私たちは充実した人生を送ることができるのではないでしょうか?
そしてその人生の最期には何が待っているのでしょうか?
聖書によれば、そこには「失望に終わらない希望」が私を、あなたを待っているのです。
山本真一郎